あれから三月~在れば分る~

「こらえて欲しい。頼む、忘れてくれ、赦してくれ。わしは老いぼれで阿呆なのだ」(シェイクスピア「リア王」)

あれから三月・・・。
山崎努氏の「俳優のノート」(メディアファクトリー)から、である。
発売は来来月だそうな。
「AVアイドルを舞台に上げてヤジとイジメで犯しまくる 完結編」(甲斐正明事務所)。
こらえてほしい。僕はまだ書いている。
頼む気はない。それでも書いてしまう。
忘れてくれ。でも映像は残る。
赦してくれ。見た人が、判断することである。
もはやあの現場の全スタッフ&キャストも含めて、公開される映像はすべて過去のものだろう。作品という名の、他人事だろう。
それでもいい。その方が、いい。
老いぼれのまま死に損なっているのは僕だけだ。
あの現場に今だ踏み止まっている阿呆は、僕ひとりで沢山なのだ。
AVだって、戯曲的な古典もどきに成り得ても、おかしくない・・・。

「リアは人類に絶望し、牢という閉じた世界を選ぶことで社会に背を向けたのだろう。それはリアの悟りかもしれない」

僕にとって撮影現場は、牢かもしれない。
とっくに人類に絶望している僕が、社会に背を向けて生きられる最上の舞台なのかもしれない。
悟りとは、おこがましい。ただの逃避だ。どうしようもない、屈折した身の置きどころだ。
作品は牢ではない。それは社会に開かれた堅固な城だ。いや、人類に進軍する重装な戦車だ。
作品は、闘える。現場は失われる。
僕は、はかないものの方が好きだ。誰も振り返らないような世界に、切ない愛しさを覚えるんだ。

「いや、いや、いや、いや!牢へ行こう。二人きりで、籠の鳥のように歌を歌おう。お前が祝福を求めれば、私は跪き、お前に許しを乞う。そんな風に生きていこう。祈りを唱え、歌を歌い、昔話をし、金ぴかの蝶々どもを笑い、哀れな賤しい者たちが交わす、宮廷の噂話を聴くのだ。私たちも仲間に入り、誰が羽振りを利かせ、誰が落ち目かと、さもこの世の神秘に通じているような顔をしよう。牢獄の壁の中で、月の出入りとともに満ち干を繰り返す。権力者どもの離合集散を眺めて暮らすのだ」(リア王)

現場には彼女がいる。
僕がイジメた女の子達が、そのままの姿で留まっていてくれる。
彼女となら歌える。彼女になら跪ける。彼女達にだったら何度でも許しを乞える。
僕はそんな風にしか生きてこれなかった。
金ぴか共を笑い、賤しい者達を拒絶し、噂話を聞き流してきた。
権力者どもの離合集散。
それが作品でありAV業界であり、ツワもの共が現場の跡だ。
僕は記憶だけの現場に残る。
時間の止まった終身の牢で、わずかの安らぎに浸る。
彼女達を純心に祝福出来る場所は、そこしかないから。

「何ということだ。すさまじい旅の末にたどり着いたところは、他でもない、元のスタート地点だったということなのか。双六の、振り出しに戻る、だったのか。自分は、唯我独尊のリアが何らかの形で自己を発見してくれることを願っていた。リアが悟りを得ることで我々に「何か」を与えてくれることを期待していた。しかし・・・今、リアはにたりと笑った。馬鹿め、「何か」なんてあるわけないだろう。「何もない」。「nothing」。俺は振り出しに戻っただけだ。人間は変わることなど出来ないのだよ」

僕は唯我独尊だろう。
そして「何も」与えられない人間だろう。
だが、僕だって元からこうだったわけではない。
こうならなければ、生きてこれなかった、すさまじい旅を耐えてこれなかった、それだけのことだ。
僕には「何も」ない。nothing・・・。
僕はそんな風に「変わった」のだ。その「上がり」が、AV現場だったのだ。
記憶なんて、商売するみたいには、誰にも与えられない・・・。

「何度でも言う。俳優は管理されてはならない。権力に屈してはならない」

AVにおける権力とは、売れるか売れないか、だ。
潮吹きもブッカケも中出しも、あらゆるテクも、ただの管理商品だ。
昔はこのようなものが一つもなくてもAVは売れた。誰も困りゃしないし、求めようともしなかった。
売れているから、それに値打ちを与えようとする。演る側も撮る側も、そこにプロ根性とやらを誇示しようとする。
性が管理されてはならない。
エロが権力に屈してはならない。
だからAVは、もはや権力だ。巨大な帝国だ。
何より管理を追求し、権力を争うことに躍起になる。
僕は中出しはNG。汁男には向かない。潮吹きはずっと下手。
しかし、ただの囚人だ。自ら牢を出ない、懲役奴だ。

「俳優も役になりきる(役を血の中に入れる)ことと同時に距離を取ることを大切にしなければならない。役を自分の外に引き出して見ること」

僕は芝居が出来ない。役を自分の中にどうしても入れられない。
別の人間を受け付けないのだ。そうなってしまったのだ。
僕は他人を外に引き出す。常に距離を取って、自分の血に触れさせない。
愛がないからか。
愛を知らないからか。
僕は俳優には、なれない。
AV男優ですら、罵倒系でしか生きようのない、奇●かもしれない・・・。

「父と「二人きり」で「牢へ行」き「暮らす」ことは彼女の意志で選択したものなのである。たとえそれが「女」の喪失であっても、自身が選んだものなのだ。この場のコーディリアの沈黙と涙は、彼女が生まれて初めて、自分の意志で自分の生き方を選び取ったことへの歓喜と昂ぶりからなのである」

僕は「男」を喪失したのだろうか。愛も性も見失って・・・。
だが、それは僕の「意志」ではない。自分で「選んだ」ものでは決してない。
僕の沈黙と涙は、絶望と悲痛からなのだ。現場ではまず見せることのない、無言と慟哭こそが、僕の真実なのだ。
それを分ってくれるのは彼女達だけだ。共にボロボロで抱き締め合えるのは、犯されている、彼女と僕だ。

「二人は既に血縁を、親子を越えているのだ。リアはコーディリアの死顔を見て「可哀想に、俺の阿呆が締め殺された!」と言う。リアの目の中で、コーディリアと道化が重なったのである。父娘の愛から普遍の愛に到ったのだ。リアは変わったのだ!」

普遍の愛。
女優と男優を越えた愛。ビジネスを打ち負かした純愛。
僕は阿呆だから、その愛を信じる。
彼女達は性を売り、僕も性を売りながらも、同時に性を買ってもいる。
愛するのは僕だけだ。
売り買いされる性にしか、慈愛の残像を見い出せないのは、僕みたいな人間だけだ。
僕は変わったのだ。
運命に、変えられたのだ。
呪ったところで、始まらない。可哀想でも何でもない。
締め殺されるだけだ。
僕は己の愛で、死に顔を晒すんだ。

「紙芝居ではない。身体で表すのだ。演技で表すのだ。「在れば分る」、自分の内に在れば観客に伝わる、ということを信じること。それを忘れるな。自分の観客を信じること。これは大事なことだ。リアが変わったことを説明するのではない。感じさせるのだ」

僕に演技力はない。身体も言うことを聞かない。
僕には「在る」だけだ。
僕の「内」なるものが、ここに「在る」だけだ。
それを現場で放つ。芝居でも表現でもなく、ただ「在る」ことを感じる。
僕は誰も信じていない。自分だって分っちゃいない。
僕は本当に「在る」だけだ。
そして一番「在れば分」ってもらえるのが、現場なんだ。記憶にまで浄化された現場なのだ。
僕が生きてこれたこと。今現在も生きていられること。
説明のしようが、ない。
僕は、ひとりで感じるだけ。
まだくたばっていないことのみを、信じるだけ。
やっぱり僕は、牢の中で、暗い牢の底だから、生かされているんだ。

「何によらず、自分は「間」をとることが嫌いなのである。特にシェイクスピアは喋りまくらなければだめだ。言葉、言葉、言葉なのだ。「間」をとらずに、音色やテムポ、リズムで変化をつけてゆくこと、これが、自分の演技をする快感なのである。感情のアクロバットを見せる快感、と言ってもいいかもしれない」

言葉、言葉、言葉・・・僕もそうしている。
現場以外でも、こうして毎日、言葉を吐きまくっている。
でも快感などではない。
痛感だ。狂おしい万感だ。
僕にアクロバットは出来ない。
やられるだけ。叩きのめされるだけ。
己を打ち叩いて、絶叫の鎖にのたうち回ってみせるだけ。
苦しむのが仕事だ。
地獄しか見えない人生だ。
現場も地獄か。
女優も悪魔か。
記憶なんて、所詮は煉獄か・・・。
分らない。僕に分るわけがない。
僕は「在る」だけだ。三か月経っても、僕はあそこに「在る」ことしか、何もないんだ・・・。

十日ほど前(97年)に亡くなった伊丹十三氏について、こう記してある。
「伊丹さんのことが頭を離れない。彼は自ら決着をつけたが、リアは生ききる。最後の一呼吸までリアは生ききる。その最後の一呼吸を観せるつもり」
僕はどちらで終わるだろう。
多分、どちらでもなく、滅んでしまうのだろう。

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